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プラークミンズ郡 (ルイジアナ州) : ウィキペディア日本語版
プラークミンズ郡 (ルイジアナ州)[ぷらーくみんずぐん]

プラークミンズ郡(、)は、アメリカ合衆国ルイジアナ州の南東部隅、ミシシッピ・デルタに位置するである。2010年国勢調査での人口は23,042人であり、2000年の26,757人から13.9%減少した〔Quickfacts.census.gov - Plaquemines County - accessed 2011-12-06.〕。郡庁所在地国勢調査指定地域ポワンタラハシュ(人口187人〔American FactFinder. U.S. Census Bureau. - Pointe à la Hache - accessed 2011-12-06.〕)であり、同郡で人口最大の町はベルシャッス(人口12,679人〔Quickfacts.census.gov - Belle Chasse - accessed 2011-12-06.〕)である。
プラークミンズ郡はニューオーリンズメテリーケナー大都市圏に属し、またニューオーリンズ・メテリー・ボガルーサ広域都市圏を構成している。
== 歴史 ==
プラークミンズ郡の郡名はフランス・クレオール語とアタカパインディアンの言葉で、パーシモン()を意味する ''piakimin'' から採られた。フランス人ミシシッピ川の岸に建設した軍事基地にその名前を付けたものだが、その場所は多くのパーシモンの木で囲まれていた。その基地の名前が郡名となり、近くのバイユーにも付けられた。
ヨーロッパ人による郡内最古の開拓地はラバリーズであり、1699年にミシシッピ川河口近くにフランス人が粗野な砦を建てて住んだものだった。ラ・バリーズというフランス語は「海の標」を意味し、船の標識となるべく背の高い木造の構造物だった。フランス人は1721年にも62フィート (19 m) の高さの標を造った〔David Roth, "Louisiana Hurricane History: 18th Century (1722-1800)", Tropical Weather - National Weather Service - Lake Charles, LA; 24 Jun 2003 , accessed 7 May 2008〕。1720年頃に作られた地図では島と砦、および河口が示されている〔"Carte du Fleuve Saint Louis ou Mississippy dix lieues au dessous de la Novelle Orleans jusqu'a son Embouchoure" , Louisiana State Museum Map Database, accessed 6 May 2008〕。
ミッシッピ川の交通と交易が増加するに連れて、川の複雑で、常に変化する流れ、また砂州などを知悉した水先案内人の重要性が増した。彼らは家族を伴ってラバリーズに住むようになった。この集落は何度も破壊されては再建されたが、1860年のハリケーンで破壊された後は放棄された。水先案内人達は上流に移動し、パイロットタウンと名付けた開拓地を建設した。19世紀にはその人口がピークに達した〔 David Roth, "Louisiana Hurricane History: Late 19th Century (1851-1900)" , Tropical Weather - National Weather Service - Lake Charles, LA; Jun 2003, accessed 6 May 2008〕。川の水先案内人の仕事は重要であり続けたが、彼らはより人口の多い地域に家族と住み、パイロットタウンには仕事のために一時的に留まるようになった。

重要な歴史史跡は1822年に建設されたジャクソン砦であり、米英戦争ニューオーリンズの戦いで英雄になったアンドリュー・ジャクソン将軍が推奨したものだった。南北戦争中の1861年、ジャクソン砦はミシシッピ川河口にあったので、アメリカ連合国軍がニューオーリンズ市を守るために重要なものになった。第一次世界大戦の1917年から1918年、アメリカ陸軍はここを訓練基地として使った。
プラークミンズ郡はミシシッピ川河口から70マイル (100 km) に広がっているので、川沿いには幾つかの製油所があり、その製品の輸送を川に頼っている。ミシシッピ川はオフショアのオイルリグを支援する基地でもある。海外貿易にコンテナを用いるようになったことではアメリカ合衆国で最初の場所である。
1901年8月のハリケーンでブラスの町には4フィート (1.2 m) の水が来るなど被害が出た〔"Louisiana Hurricanes" , The Cajuns〕 。

1900年代初期、郡内からは柑橘類が輸出された。農夫は鉄道とミシシッピ川を使って大量の商品を市場に送り出した。特に牡蠣を中心とする商業漁業も郡経済にとって重要なものだった。
1915年の大ハリケーンは郡内の多くの場所で被害を出し、ミシシッピ川両岸で堤防が決壊し、高潮は12フィート (3.6 m) に及び、数百人の死者を出した。多くの者が家を失い、慈善援助が届くまで飢えてしまう者もいた〔"Hurricane of 1915: Plaquemines Parish History" 〕。ポワンタラハシュの古い郡庁舎もこの嵐で破壊された建物群の1つであったが、1年経たないうちに新しい庁舎が完成した。
1919年から1969年、プラークミンズ郡とセントバーナード郡は、政治ボス、レアンダー・ペレスの支配するところとなり、ペレスは地域に事実上の専制を布いた〔Glen Jeansonne, ''Leander Perez: Boss of the Delta'', 〕。ペレスは選挙を操作し、厳しい人種差別を強いた。ペレスが死ぬとその息子達であるレアンダー・ペレス・ジュニアとチェイリン・ペレスが、それぞれ地区検事と郡長に選出されて政治を支配した。個人間の揉めごとからペレス一家の実権が弱くなり、1980年までには政敵が選挙に勝てるようになった〔。
1927年のミシシッピ川大洪水のとき、市と州の指導者達は、ニューオーリンズの町を洪水から救うために、キャナル通りの下流13マイル (19 km)、カーナーボンの堤防をダイナマイトで爆破した。その結果、人口の少なかったセントバーナード郡やプラークミンズ郡の大半が洪水となり、農作地や家屋に大きな被害をもたらした。
1965年、ハリケーン・ベッツィがこの地域を襲い、郡庁舎など多くの建物に浸水し、9人の死者が出た。レアンダー・ペレスは郡を外界から遮断する一方で州の援助を得ようとした〔Glen Jeansonne, ''Leander Perez: Boss of the Delta'', p. 354〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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